盟友であり、親子であり、夫婦であったこの4人のゆかりの地を巡り、
彼らが残した数々の功績、そして歴史のロマンを体感してください。

明智光秀は、天正3年(1575)より織田信長の命を受け丹波攻略を開始し、盟友・細川藤孝(幽斎)とともに、4年の歳月をかけて丹波・丹後平定を成し遂げました。この平定戦のなかで、光秀は丹波にいくつもの拠点を築いており、京都府域にはその足跡が多く残っています。
主君 織田信長を「本能寺の変」で討った“謀反者”としてのイメージが強い明智光秀ですが、丹波地方では、善政を敷いた“名君”として今もなお慕われています。

略年表

享禄元年(1528年)
・明智光秀、誕生と伝わる。

弘治2年(1556年)
・美濃・明智城が落城し、越前の朝倉氏のもとに逃れる。

元亀元年(1570年)
・金ヶ崎の戦いで、撤退する織田軍の殿軍を務め、功績をあげる。

元亀2年(1571年)
・比叡山焼き討ちで中心的な役割を果たし、信長より近江志賀郡を与えられ、坂本城築城に着手。

元亀4年・天正元年(1573年)
・藤孝(幽斎)、桂川以西地を「一職」に拝領し、長岡姓を名乗る。

天正3年(1575年)
・光秀、惟任日向守となる。
・信長から丹波・丹後両国の平定を命じられ、赤井氏の居城、丹波・黒井城を攻めるが攻略できず。

天正4年(1576年)
・再度、丹波・黒井城を攻めるが、波多野秀治の離反により退却。

天正5年(1577年)
・丹波亀山城を攻略し、新拠点とする。続いて波多野氏の居城・八上城を包囲する。

天正6年(1578年)
・光秀の娘・玉、信長の命により、藤孝(幽斎)の長子・忠興に嫁す。

天正7年(1579年)
・八上城および八木城、黒井城を落として丹波を平定し、福知山城を築城。続いて藤孝とともに丹後も平定する。

天正8年(1580年)
・信長、光秀に丹波、藤孝(幽斎)に丹後を与える。
・藤孝父子、勝龍寺城から八幡山城に移る。また宮津城を築く。

天正9年(1581年)
・細川氏の招きで宮津での茶会に参加し、天橋立を見学。
・全8箇条からなる軍規「明智光秀家中軍法」を定める。
・この頃、藤孝(幽斎)、舞鶴で田辺城の築城に着手。

天正10年(1582年)
・愛宕山に詣でて、里村紹巴と連歌会を行う(愛宕百韻)。(5月)
・本能寺の変で信長を討つ。(6月2日)
・細川藤孝父子に同盟を働きかけるが拒絶される。(6月9日)
・山崎合戦で秀吉軍に敗北。(6月13日)勝龍寺城に逃れ、のちに死去。
・光秀からの援軍要請を断った藤孝(幽斎)は剃髪。忠興に家督を譲る。
・忠興、豊臣(羽柴)秀吉から、丹後一国を安堵される。
・玉、居城であった宮津城から京丹後にある味土野に移され幽閉される。

天正12年(1584年)
・玉、豊臣(羽柴)秀吉のとりなしにより、味土野から幽閉を解かれ、宮津に戻る。

天正15年(1587年)
・忠興、秀吉の命で九州・島津氏討伐に向かう。
・玉、忠興が不在中にガラシャの洗礼名をもらう。

慶長5年(1600年)
・ガラシャ(玉)、石田三成から人質になるよう求められたが拒否し、家臣に命じて自らの命を絶つ。
・幽斎(藤孝)、丹後国内の城を自焼し、田辺城の戦いにて、石田三成方西軍と田辺籠城戦を繰り広げる。